直観力

量子を観る

量子を観察する

 

など、「観」の字を使っていますね。

「直感」とか「見る」ではない。

 

これには意味があります。

 

『般若心経』の観自在菩薩の「観」と一緒です。

 

さて、

作家玄侑宗久さんの著書『観音力』からまんま拝借いたしますが

この観自在菩薩は原語では

「アヴァローキテーシュヴォラ」というお名前で

「アヴァ」と「ローキタ」と「イーシュヴォラ」が結びついた

名前だそうです。

 

キラキラ「アヴァ」は「~から離れて」

キラキラ「ローキタ」は「みる」

キラキラ「イーシュヴォラ」は「自在」

 

観自在菩薩とは

何かから離れて自在にみる

という意味です。

 

そして、この「何か」とは「私」ではないかと。

 

実際、「私」というのは

痛みや痒みを感じる存在で

怒りや喜びを感じる存在で

あれこれと判断する存在で

あれがほしいこれがいらないと思う存在です。

(それが悪いというわけではないですよ)

 

量子場観察術で、「直感」「見る」という感じを使っていないのは

両者とも肉体をとおした感覚的なもので

感覚とはすなわち「私」のものであるからです。

 

なので、量子を観るとき

 

この「私」からいかに離れるか

 

ということをやっていきます。

 

「私」というものは

自分の過去や体験や観念や肉体をとおして

それ以上の判断できないものを

固定化したり制限するものなので

量子というエネルギーを観察する(認識する)とき

ちょっと邪魔になってしまうのですね。

 

もちろん

この社会ではそのような「私」の機能は必要です。

「私」として自立して、主張したり、防衛したり、分離することが

求められます。

 

けれども

物理的な因果関係や社会性を超えるためには

この「私」から離れることもあってもよい。

 

おもしろいことに、量子の世界でも

「私」という言葉より「自分」という言葉を使った方が

量子を動かし現実化するのに適していると、院長が言っておりました。

(前回のWIND講座で)

 

大脳は「私」の存在を守るため、失敗をしないように

いかに安全に効率良く無駄なくやるか

というところに力を使ってしまうものですが

 

そんな「私」から離れて

そういった想念を考えない方が、楽々とうまくいくものです。

 

「私」が努力することで、成功や幸せを勝ち取ることができる

という観念がありますが、むしろその「私」は邪魔で

「私」から離れ、努力や我慢をするよりは

もっと自分と大いなるエネルギーをつないでいった方が良いのです。

 

そのために

 

意識と無意識に橋を架ける

 

ということをやっております。

 

量子場とは、宇宙すべての全体性です。

 

その全体性に「私」という鎧を脱いで

身を任せ、大いなるエネルギーと同期し

意図と現実を合っていく

意識と無意識に橋が架かる

ものです。

 

そんなことに、私、ではなく

自分たちは挑戦しています!!