ルーツ亜体験
2019.11.09
昨日から、軽井沢へ小旅行、岩尾家のルーツ亜体験だ。親父の弟は、10年ほど前に95歳で他界した。叔父は生涯独身貴族を通し、少なからずの遺産を遺言で、一族郎党全てに分け隔てなく残したツワモノだった。その叔父が、生前多額の費用で岩尾家のルーツを調査するよう専門家に依頼した。その調査によると私たちのルーツは岩尾城の城主であると結論し、その調査結果を本にして残してあるらしい。そんな話を兄から聞き、その真意はわからないが、ひょっとしたら、自分の先祖がさまざまな思いを残しているかもしれないと思いたち、今回岩尾城跡を訪れた。軽井沢ホテルエキシブの宿泊先より車で二十分、岩尾城跡があったが、荒れ放題で城の痕跡は看板があるだけで何もない。しかし静かに目を閉じていると、あっという間に数分が過ぎ、かすかな意識の風を感じたように思う。兄から城を追われたらしい先祖が、隠れて生き延びたことは聞いていた。そんなところから、想像するに、私自身の子供からの性格もいつも目立たないところを好むところがあった。その性格は、私だけではなく、兄も親父も親戚もそんな感じだ。
その中で、一番表に出ているのは私だろう。そんな私もかあちゃん事、妻朋美を前に推し出し、後ろに隠れる事をいつも考えている自分がいる。もし、それが先祖からのトラウマであるなら、この調査を真に受け自分自身を解放してみようかと考えた。
自分には、トラウマらしきものが無いと思っていたところ、こんなひょんな事から変容すべき、トラウマを見つけた気がする。もう一つある。
もし、先祖が良い城主なら、幸せや豊かさを下々にも届けようとした良い徳があったに違いない。
量子場は宝の山であるが、その宝を先祖の城主や、叔父のように縁のある人に分け隔てなく、届けるのは、先祖が培った良い徳が行う自然な事なのかもしれないと思った。これは、独り言、つぶやきである。
お、おーっと嬉しくなった
2019.11.07
最近のお笑い番組についていけない自分がいる。
声だかで、早口に喋る内容は、機転が利いているのは、周りのそれを上回る笑い声で察することはできるが、なんとも悲しいことだ。
自分の頭が悪くなったのかと(耳があまりよくないのはある)疑うこともしきりだ。
しかし、そうとも限らんと自分に言い聞かせた。
なぜなら、量子の技術がここに来て加速しているからだ。
昔から、あまり人の話をよく聞く方でもなく早口な方でもないし
芸能界に大した興味はないのだから、なおさらだ、これで問題なしと決め込んでもいた。
そんな折、テレビで、三遊亭円楽が脳梗塞後復帰し、こんな事を言った。
「前のように早口で話せないけど、その分気持ちを込めて話せるようになった」
そんなコメントを聞いて、お、おーっと嬉しくなった。
現代は情報がお金になる妙な時代だが、円楽のような味のある人が、
多くなって、より心を込めた深みのある時代に変わってゆくかもしれない。
それは、おそらくぬか喜びだと思うが、
少なくとも量子の世界は音もなく、ざわめきもなく深い事を成してゆく。
私たちにどうと言ったことではない
2019.10.31
最近、量子関連の情報が広まっている。
引き寄せの法則を始めとした、心と現実の間を取り持つ量子に関して興味津々な人たちが、私のところにも大勢やってきている。その多くが、心熱き中年層の女性たちである。
量子力学は、アインシュタインでさえ、認めていなかった。どうして認められないかと言うと、単純に数式に表すことが不可能だからだ。
心の世界をどうして数式に表すことができよう。
例えば、幸せや、愛、憎しみ、友情などを数式で表す努力は、考えただけで不毛に思える。
では、どうして量子の存在を世界が認めたのだろうか。
それは、意識ある者の観察者効果による。
女性は直観的にこれらを何の努力もなく知る。数式などいらないのだ。
この心の直観世界が、観察者を伴った量子場の世界なのである。
一方で、量子の物理の側面だけを、取り出し工業的な装置、量子コンピューターや瞬間移動装置を考案するために、超優秀な科学者集団が今にも完成する勢いで励んでいる。この99パーセントは心という干渉を最小限にする努力なのである。
もし、量子でコンピュータが出来、それが気温の変化や心の影響で誤動作するなら、コンピュータとしての用を成さない。
だから、彼らは心の世界、意識の世界を排除する研究をしているのであって、心を対象とした研究は皆無に近い。
ここで、量子の本領は意識との関係であることを量子関連の人たちは百も承知だ。
ここが問題だ。
意識との関係は、工業的な製品にならないので、量子科学アカデミーのレベルでこれらの研究は排除されることになった。
これは、現代医学も同じで、気功や気、意識科学、またそのようなことに興味のある研究者をオカルトと称し、ボイコットしているのと同じだ。
だからと言って、私たちにどうと言ったことではない。
いや違った。。。どうと言ったことがある。
「心ある直感力を持っている人たちにとって、目の前に宝の山のごとく、手つかずの市場や未来がここにある」
現代科学よ、どうか、しばしの間この宝に気がつかないでもらいたい。
神魔人のごとき
2019.10.27
ある人はプロ目指して努力に努力を重ねているが、一向に進歩しない。
ある人はぬくぬくそれほどの努力なくても全てうまく行っているが、一瞬死にたくなる。
ある人は、頭が変になりベットに拘束されて、その辛さでさらに感情まで変になりそうだ。
ある人は、病と闘い疲れ果て今にも負けそうだ。
ある人は、次から次に襲ってくる老化の波に、うんざり手をこまねいている。
これは、その状況の中でありのままなのだが
松本白鸚演じるラマンチャの男は
「一番憎むべき狂気とは、あるがままの世界にただ折り合いをつけてしまって
あるべき姿のために戦わないことだ」
なんて、凄い言葉を表現することか。
ありのままと戦うことが、狂気と言われがちな世の中で、こんなことが言えるのは
さすが、芝居の世界。
では、どのように戦えと言うのか。
ここに量子場の出番がある。
意識あるものの指示を待っている、神魔人のごとき能力を持った量子の群れに気がつくこと。
異様に見える世界が、最もまともな世界である可能性がないかな?
自然体
2019.10.24
病気は、自然体とは同居できない。
これを逆に観ると、病気は不自然体ということになる。
だから健康を取り戻す起点は自然体にある。
では、どのように、自然体に戻れるのだろうか。
ここが問題だ。
誰しも身体の軸や心にブレがある。
回転するコマや車輪の軸がブレるに従って、速度は低下し揺れが大きくなる。
それは自然といえば、自然なことだ。
しかし、これを放っておくといずれ、間違いなくコマは倒れ、車軸は破壊され動かなくなる。
誰しも、いずれ終わるのだから、それはそれでいい。
ここでも、しかしである。
コマは倒れ、身体は動かなくなるが、人は生き続ける。
人間そう簡単には死なない。
。。。量子場調整は、病気や死に逆らうものではない。
生きている間は、自分らしく自然体でいるための技術なのである。