遊んでられん

2019.12.07
科学者が物や現象を観察する時、その観察者はその人の知識でありその人だ。

私たちが、健康になりたいとして思い描いた、その思いは誰が観察するのだろうか。
物を見ているのと違って、思いは目に見えない。


それは、、
はじめのうちは、その人であるが、徐々に意識そのものが見始めるのだ。
ここが問題だ。


意識そのものが観るということは
そこに人の判断がないがために
生まれるものは量子なのである。


つまり、量子は意識の子供というわけだ。
ということは、量子は意識を持っていることになる。


そのために、物事が加速し始めることになる。

この時、物や自分自身の習癖にとらわれた見方をすると、意識が観ることを遮ることになる。

私たちが量子を生み出すわけではない。
意識がその全知能力の能力において量子を生み出すのだ。
私たちは、理屈であり、損得勘定の人としての欲望だ。
それが悪いわけではない。
それがなければ、量子も大忙しだ。


遊んでられん。
量子はそう言っている。
量子は神の王子のように、遊びの達人なのだ。
2019.12.07 18:00 | 固定リンク | 思いついた事

それが好きでたまらないというのに

2019.12.07
もっとも個性的な美は、染み付いた過去の習癖をふり払った姿にある。

普通、歪み癖のある性格が
自分の個性であり
丸ごと受け入れてくれる人が
愛のある人だと思う。
そのような人を子供の頃からずーっと待っている。


スピリチュアル系の美辞美麗で
あなたはそのままで、いいんだよ。
そのままで愛されるべき人なんだという。
深い意味ではその通りだ。


しかし
こんな事に近い。
顔にごはん粒や、何年も引きこもって歯を磨かないので口臭
それを見て、そのままでいいんだよと言っているような感じだ。
可愛い癖もあるが、被害者意識や、いじめなどの習癖はそうはいかない。
本当に会いたいのは、
その人にまとわりついた過去やその性格ではなく、その人自身との出会いである。


ある人は、見栄を張るのに忙しい。
ある人は、自分の主張が通らないだけで、切れる。
ある人は、すぐに被害者モードになる。
ある人は、音無しの構えだ。


これらの習癖は、どれもこれも月並みなもので、個性的ではない。
生まれた時から今までに、親か友人か誰かの真似した習癖であって、その人自身ではない。


自分が、その真似事が自分の個性と思っている場合
どんな人も、その真似事を愛することはできない。


だから、素晴らしい関係が難しい。
自分の愛している習癖を相手に押し売りしているのだから。
結局愛しているのは自分でもなく、相手でもなく実体のない真似事だ。


では、どのように染み付いた真似事を振り払う?
それが好きでたまらないというのに。
2019.12.07 11:07 | 固定リンク | つぶやき

 

岩尾和雄

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